湯玉飛散
「いつもごめんね、里乃さん」
セイが申し訳無さそうに背後の里乃に頭を下げる。
視線の先は鏡に映りこんでいる姉ともいえる女子の姿だ。
「そんな気にせんといてっていつも言ってるやないの」
セイの濡れた髪を小房に分けては水気を手ぬぐいに吸わせる作業をしながら、
里乃がほんのりと微笑んだ。
普通の女子に比べれば未だに長さは足りないけれど、
それでも女子の洗髪は大仕事だ。
町家のほとんどの家には風呂が無いのが当然で、女子は大きな盥に湯を満たし、
それで少しずつ長い髪を洗ってゆく。
ただ、人の出入りが多いこの家の事情を考えれば、セイ一人の時に悠長に
そんな事をしていられるはずもない。
だからこうして里乃に手を貸して貰う事になっているのだ。
けれどやはり度々世話になっている事が、セイにとって心の重荷になっているらしい。
――― ふう・・・
里乃が溜息を零し、セイの気分を変えようと明るい声で話しかけた。
「なぁ、おセイちゃん? 髪を洗うのは禁止やけど、今度一緒に湯屋に行こか?」
「湯屋?」
その言葉に鏡の中のセイの表情が僅かに曇った。
「たまにはのんびり大きな湯船に浸かるのも気持ちええと思うんよ?」
「うん・・・そうなんだけどね。私はずっと隊にいて、女子だって事が
ばれないようにってコソコソお風呂を使ってたんだよね。
だから誰かと入るっていうのに抵抗があって・・・」
セイにしては歯切れの良くない口調でもごもごと呟く。
「そないな事は馴れとちゃうの?」
里乃の言葉に心なしかセイの首が項垂れてゆく。
「でも色々大変な事もあるけど、家で一人で・・・の方が気楽だから・・・」
ちらりと鏡の中で向けられた視線が、これ以上この話題を続けたくないと
願っているような気がして里乃は口を噤んだ。
どう考えても何か心に抱え込んでいるようなセイの様子を見ているうちに、
一つの可能性に思い当たる。
問いかけて良いものかと逡巡してセイの後ろ頭をじっと見つめた時だった。
「セイ〜、ただいま帰りましたよ〜」
玄関先から間延びしたこの家の主の声が響いた。
「や、もうそんな時間なん? まぁ坊が心配してるわぁ」
パタパタと里乃が帰り支度を始めた。
いつもの出迎えが無い事に怪訝そうにしながら総司が部屋に入ってくる。
「ああ、里乃さん、いらっしゃい」
「お邪魔さんどす、沖田センセ。ほな、うちはこれで」
「では私が送ってきますね」
にこにこと総司がセイに声を掛けた。
里乃と正一の住む家はここからそう遠く無いとはいえ、暮れかけた道を
一人で帰すのもどうかという時刻だ。
「すみません、総司様。よろしくお願いします」
セイが小さく頭を下げると同時に里乃が首を振った。
「まだ明るいんやから、沖田センセの手ぇを煩わせんかて帰れる・・・」
言葉の途中に総司の笑い声が割り込んだ。
「ははは。いいじゃないですか。たまにはまぁ坊の顔も見たいですしね。
では行って来ますね」
スタスタと先に立って玄関を出て行く後ろ姿を里乃が慌てて追う。
「ほな、おセイちゃん。また近々」
「はい、今日はありがとうございました。お気をつけて」
セイの明るい声に押されて帰り道へと向かった。
道々雑談を交わしながら幾度も迷った末に、里乃が総司に問いかけた。
「あのな・・・沖田センセ、変な事を聞くようやけど・・・」
その夜、里乃を送って戻った総司は、何か考え込んでいるように
言葉数が少なかった。
――― とすとすとす
少し乱暴な足音が部屋に近づいて来た事に、土方の眉根が寄せられる。
この副長室へそのような足音を立てて訪れる人間は限られており、ほとんど
間違いない事にその来訪者は厄介事を持ち込んでくるのだ。
そしてそれは今日も例外ではなかった。
――― パシンッ!
勢いをつけて開かれた障子の向こうには少し前に嫁を娶った弟分が立っている。
その眉間には土方に負けず劣らずの皺が刻まれていた。
「夫婦喧嘩の泣き言なら聞かねぇぞ」
投げるように言い捨てた土方の前に音を立てて総司が座る。
「そんなんじゃありません!」
「じゃあ何だ」
聞かなければ良いとも思うが、聞かずに済ませようとしてもこの状態の総司が
黙って部屋を去る事など有り得ない。
どれほど冷たくあしらおうと、一通りの話を土方に聞かせるまでは
梃子でも動こうとしないのだ。
だったら面倒な事はさっさと終らせるに限ると土方が話を促した。
「うちに、風呂を、作ります!」
一言ずつ区切るように総司が言った。
「はぁ?」
「おい、歳。総司が来ただろう?」
土方の間の抜けた声と同時に近藤が部屋へ入って来た。
先程総司と廊下ですれ違った時、小さく会釈をしただけで妙に据わった目のまま
副長室へ向かって行った様子が気になったらしい。
「ああ・・・総司だったらここにいるがな。また妙な事を言い出しやがって」
「妙な事なんかじゃありませんよっ!」
土方の言葉に噛み付くように総司が返す。
「うちに風呂を作るって言ったんです!!」
地方なら別として、江戸や京・大坂などの紙と木で出来た大都市は、
火災を防ぐために一般の家には風呂の設置は許されていない。
広い武家屋敷や公家の邸、多くの使用人を抱える大店以外は
湯屋という公衆浴場を利用するのが常識だ。
もちろん隊では私設の風呂があるが、それだとて寺社という
治外法権の場所の上、広い敷地内だから許される事で、
総司の休息所にそれが許されるかは微妙とも言えた。
「どういう事なんだ、総司?」
穏やかな近藤の問いに総司がぽつりぽつりと語りだした。
「昨日、里乃さんに聞かれたんです。セイが湯屋に行くのを頑なに拒む理由に
心当たりは無いかと。わからないと言うと・・・」
セイの体に傷は無いかと問われたのだ。
体に傷跡のある女子は湯屋では目立つ。
ましてそれが刀傷であるなら尚の事。
ひとつだとしても人目を引くだろうものを、もしかしたら複数あるのではないか。
セイはそれを気にしているのではないか。
そう自分は推測したのだと里乃は語った。
「・・・あるんですよ、傷跡。ひとつどころか、体中に幾つも・・・。
刀傷では無いけれど一番大きな物は足に残ってます。
以前家畜に壊された柵で怪我をした時のものですがね。
それ以外にも・・・傷だらけですよ、あの人」
泣きそうに顔を歪めて総司が俯いた。
当然だ。
男として隊にいたのだ。
日々を生死の狭間で生きていた。
巡察中に斬り合いになった事も幾度もある。
怪我など日常茶飯事だった。
死にたくなければ強くなるしかない。
稽古の場では誰もが容赦などしなかった。
致命傷になるような傷を負う事は無くとも、未熟な隊士の常として
体のあちこちに無数の傷を作ったはずだ。
自分は気にしない。
その傷の幾つかは間違いなく自分がつけたものだろうから。
死線に立つ以上は少しでもその命を守る術を身につけさせる為、
殊にセイには厳しく稽古をつけた。
怪我をさせた事など数え切れない。
自分はその傷の一つ一つがセイの誠の証だと知っている。
だから今まで気にもしていなかった。
恐らく武士として隊にいた時のセイも、気にする事など無かっただろう。
けれど女子に戻った今、他者から向けられる好奇の視線に
痛みを感じずにいられるだろうか。
それを思うと総司の胸も酷く痛んだ。
「女子として、そんな傷がある事は・・・他人から奇異の視線で見られる事は
つらい事ですよね・・・」
呻くように零した自分の言葉に里乃が激しく反論してきた。
「自分だけがそないな目で見られるんやったら、おセイちゃんは
気にしたりしまへん。沖田センセの事を思うからっ!」
セイが沖田の妻である事はかなりの人間に知られている。
けれどセイが隊士だった事を知る者は少ない。
だからこそセイの身体に残る傷跡が、総司の悪質な性癖(人斬り故の)から
夫につけられた物ではないかと妙な勘繰りをする者がいないとも限らない。
むしろ京雀はそういう噂が大好きなのだから・・・。
里乃だとて湯屋でそういう噂を嫌と言うほど聞いているのだ。
セイがくだらない誤解を避けようと思う事など、手に取るように理解できた。
沖田総司という男に、これ以上誤った風聞をつけたくない。
そんなセイの想いは総司にも伝わらないはずが無かった。
「だから・・・」
そんな目を気にする事無く過ごさせてやりたいのだ、と総司が言葉を紡ぐ前に
近藤がすっくと立ち上がった。
「奉行所に行って来る」
「近藤さん?」
目を見開いて問いかける土方に向かって、無造作に答えが返った。
「総司が行くより俺が行った方が話が早いだろう」
風呂の設置に関しては奉行所の許可が必要となる。
新選組局長が直々に交渉に行くと言っているのだ。
「ちょっと待てよ・・・」
額に手を当てて土方が首を振った。
「止めても無駄だぞ、歳。俺は神谷君に肩身の狭い思いなど
させるつもりは無いからな」
情に篤いこの男の考える事など土方にも理解できている。
止めようとしても止まらないだろうという事も。
「そうじゃなくてな・・・。とにかく落ち着けよ、近藤さん。まず座れ」
溜息混じりにかけられた声に近藤が渋々と腰を下ろした。
「こういう交渉事はあんたより適任の男がいるだろうが。あんたは大将なんだ。
どんと構えて命じればいいだけだ。そうだろう?」
子供に噛んで含めるように土方が語りかける。
「幸いというか、総司の家は庭が広い。長屋なぞに住まわせていたら
無理だったろうが、恐らく簡単に許可は下りるだろうよ。
そっちの交渉は俺がする」
てっきり我侭も大概にしろと怒り出すだろうと思っていた土方の言葉に、
総司が目を瞬いた。
その様子に兄分が小さく笑う。
「隊からお前らに婚礼の祝いを贈ってなかったからな。祝い代わりだ。
黒谷や一橋から贈られてるのに俺達が何もしねぇって法はねぇだろうよ」
実際は女子として身の回りの品の一つも持っていなかったセイの為に、
近藤や土方らの幹部達があれこれと嫁入り支度の費用を出していたのだ。
それと同時に隊を抜けるにあたって、慰労金としてそれなりの金子も渡されていた。
それらが実質上の隊からの祝いであった事は周知の事なのだが。
改めて目に見える形で沖田夫婦への祝いとすると土方が言う。
総司の胸にその想いが沁みていった。
「だからな・・・大工や桶屋の手配はてめぇらの仕事だぜ!」
障子の向こうに土方が声を投げた。
「おうっ! 任せろよっ!」
ぱんっ! と音を立てて開いた障子の向こうにはズラリと幹部が揃っている。
皆近藤同様に総司の苛立ちから何事かがあったのだと気遣って、
話を聞いていたのだろう。
「ったく、副長室での会話を盗み聞きするなんざ、ふてぇ野郎共だぜ」
苦々しげに吐き捨てる土方の言葉に動じるような人間はここにはいない。
「まあまあ。で、いつまでに手配すりゃいいのさ?」
土方を宥めるように藤堂がにこにこと問いかけた。
「誰に言ってやがるんだ。こんな話に半刻もかかるもんか。
明日には仕事を始めさせろ」
ニヤリと口元を吊り上げた男の言葉にどっと笑いが起こった。
何の事は無い。
総司や近藤を止めるどころか、この男が一番に動きたがっているのだ。
――― どんっ!
思わぬ速さで進んでいく話についていきそびれた総司の背中を永倉が叩いた。
「何をぼんやりしてるんだ。さっさと家に帰って神谷に大工が入る事を
説明して来い。女房が納得しなけりゃ、せっかく土方さんが動いてくれても
無駄になっちまうだろうが!」
確かにそれは正しい。
セイに黙って決めた事に臍を曲げられたら厄介だ。
だが・・・。
「一番隊組長が家でのびのびと湯に浸かって英気を養えるようにと、
皆からの婚礼祝いだ。神谷とて異論はなかろう」
暗にセイの傷がどうこうという話は、この件には関係無い事にしろと斎藤が言う。
他の男達も黙って頷いた。
妻を思いやってくれる仲間の気遣いに、深い感謝をこめて総司が頭を下げた。
「おら! 早く神谷に知らせに行け!」
土方の声に背を押されて総司が部屋を飛び出して行き、
後には兄分達の穏やかな笑い声がさざめいていた。
それから十日も経たぬうち、総司の家の庭に小さな浴室が増築されていた。
セイが人目を気にせず湯を使えるようになったのは喜ばしい事だったが、
何かといっては風呂を借りに来る隊士や近隣の者達のせいで、薪代や
水汲みの手間がセイの大きな負担となったのは総司の予想外の事。
ぶつぶつと愚痴を零すセイを横目に、それでも総司は満足顔だった。
兄分や仲間達の好意から作られたものだから?
セイの心の安寧に役立つだろうから?
真実の理由は別にある。
(だって湯屋ってほとんどが混浴なんですよ? 許せます?)
にやりと笑うこの男の胸の内に気づいている者がいるかは・・・謎だ。